DaBY パフォーミングアーツ・セレクション2021「ダンスの系譜学」
ごく一般的に言って、SNS的なコミュニケーション環境と常時接続されるデジタルメディア社会の範例的なダンスプラットフォームはTikTokになるだろう。興味深いことに、アプリ画面のスワイプに合わせて15〜60秒ほどの短い動画をエンドレスに再生するこのプラットフォームには、動画の投稿日時を表示する機能が実装されていない。つまり歴史どころか過去から未来に流れる客観的な時間の概念そのものが失われている。
この無時間的な消費空間は「いいね」を求めて同じ曲の同じ振付を模倣する「#踊ってみた」のミーム動画を延々と増殖させ、主体の根拠であったはずの身体を、アノニマスな視聴者の期待を先取りして作られる”映える見た目”の一過的な現象(シミュラクル)に置き換える。
つまり、TikTokのようにグローバルなプラットフォーム企業が提供する即時的な快楽と消費のリズムに取り憑かれた現代のメディア環境では、自己・身体に首尾一貫した意味やドラマを与えることはもはや不可能、ということだ。時間はバラバラに砕け散り、接続過剰の気散じから生まれる記憶喪失が私達の社会を条件付ける支配的なモードになっている。スマートフォンを手放して劇場の椅子に2時間座ることすら苦痛に感じられる多動的な”注意欠陥社会”で、鈍重な劇場と生身の身体に何が期待できるというのか?
このような問いを提起したのは他でもない、KAATで再演された「ダンスの系譜学」が、TikTok的なダンスプラットフォームを作動させるデジタル資本主義の圧倒的な消費と忘却の速度に抗して、あるいは諦念に沈むことなく、歴史的な身体知を回復させるための拠点を形成するもうひとつのプラットフォームに見えるからだ。
まず最初に「ダンスの継承と再構築」を掲げる本企画は、20世紀バレエの開拓者のひとりであったミハイル・フォーキン、モダンダンスと抽象バレエの交点に位置するイリ・キリアン、そしてバレエテクニックの脱構築と自己組織的な即興の方法論の構築に踏み出したウィリアム・フォーサイス、この三人の振付に焦点を当てることで、20世紀における欧米モダニズムのダンス史を展望する歴史的な視座を観客に提供する。
さらに、酒井はなが『瀕死の白鳥』を、中村恩恵が『BLACKBIRD』を、安東洋子が『失われた委曲』を踊るパートと合わせて各自の新作も上演するというトリプルビルの形式は、歴史と「私」のあいだに生じる相互作用のプロセスを明らかにすることで、系譜学的アプローチを具体化するユニークな試みになっている。西欧あるいは男性中心主義的な視点で構築されるダンス史の覇権的なナラティブを追認するのではなく、むしろダンサーの──女と名指される──「私」の視座から、「私」に身体化された振付の知を批判的に読み直そうとするのだ。
酒井はなによる『瀕死の白鳥 その死の真相』と題された同作のリクリエーションにはチェルフィッチュの演劇作家、岡田利規が参加した。岡田の作家性の一面を特徴づけるダラダラした文体のナレーションは、白鳥の悲劇的な死にコミカルな印象を与え、美的に洗練された「バレエ」の芸術的な価値を──岡田の言を借りれば──「台無し」にする。とりわけ湖畔にたくさん落ちていたカラフルな丸いものを飲み込んで死んだとされる白鳥が、路上の酔っぱらいのごとく激しく嘔吐する場面は、クラシックバレエの理想的な美学とはあまりにもかけ離れており、グロテスクな猥雑さすら感じさせる。しかし、それゆえに嘔吐のジェスチャーは、その落差の感覚によって、「西欧」や「芸術」の権威化された言説のヒエラルキーで刷り込まれた「私達」の美的な価値判断を意識させ、日本という場所の政治的・文化的な位置性を浮き彫りにする。そのうえ、プラスチックごみを誤飲する海鳥の事例を想起させるエピソードは白鳥を美しいものとして表象する人間中心主義的な欺瞞に対する批判的な注釈にもなるのだ。
中村恩恵は無意識の暗い底から浮かび上がる感情や記憶、そして歴史への哀悼を「黒鳥」の身振りで呼び起こす『BLACKBIRD』に新たな記憶の頁を書き加える。この企画のために中村が創作した『BLACKROOM』では、多数のキリアン作品にダンス音楽を提供しているハウブリッヒのミニマルで叙情的な楽曲が用いられ、そこに「誰もいないの?」と呼びかける女性の声が混ざり合う。暗闇に溶け込むような黒い衣装を身に着けた中村は、部屋に流れる「声」に敏感な反応を示すが、やがてその「声」に蝕まれるように身体を強く緊張させる。ここで、他者の呼び声は自らの内側から湧き上がる苦悶と渾然一体になり、誰かを求めて空転する嘆きの身振りへと発展するのだ。こうした絶望的な孤独感に悶える悲痛な感覚は、現在のわたしたちを取り巻くコロナ禍の孤独と通底している。中村はここに『BLACKBIRD』で羽ばたく「黒鳥」の身振りをつなげることで、コロナ禍で渦巻く感情に歴史的な哀悼を捧げるのである。
安藤洋子は、オーディションで選出した20歳前後のダンサー、木ノ内乃々と山口泰侑とのコラボレーションで『MOVING SHADOW』を制作した。無重力空間の漂流を思わせる冒頭のシークエンスから、観客への呼びかけ、手旗信号、合図で変化する舞台照明、見せ場のソロ、機械じかけの人形や時計の秒針を思わせる動きなど、舞台のシチュエーションが刻々と変化する遊び心にあふれた作品だ。一方、作品の終盤近くでは、バックライトに照らされた安東の相貌が真っ黒な影として浮かび上がり、プレイフルなダンスの裏に張り付いた不気味な影の存在を思わせる。この両義的な危うさは『失われた委曲』抜粋ソロバージョンに引き継がれ、複雑に絡み合う運動の力線から、うねるようなダンスのグルーヴを生み出していく。安藤は踊ることを通じて不安定な関係の場に身を投じ、いまだ予期し得ぬ「私」になり続ける過程こそが未来に開かれた生であることを指し示すのだ。
「ダンスの継承と再構築」という取り組みは、ダンサーに身体化された振付から歴史を照射し、オルタナティブな生と身体のありかたを構想する。劇場を生きた記憶のメディアとして再活性化する「ダンスの系譜学」は、いまあらためてダンスの歴史的な身体知を再建する果敢な一歩を踏み出している。
渋革まろん