Master Class Vol.3「レパートリーを踊る」(畠中)
2021/2/2(Tue)
レポート:畠中真濃

写真:柿崎麻莉子クラスより
<小㞍健太によるコンテンポラリークラス
このクラスではバレエのテクニックを応用し、バーレッスンや即興的な要素を多く含むワークが行われました。クラスにおいて扱ったワークでは、空間と自分の関係を俯瞰する目線とそれに対する自分の主観的な目線の2つが必要であると感じました。
ワークとは具体的に、実際には触れずに触れられた部分から動くワーク、オンバランスとオフバランスをコントロールするワークなどがありましたが、どれも空間(他者を含む)の点と自分の点を考える必要がありました。しかし健太さんは、諦めも重要であると度々言葉かけをしていました。私の解釈では、これは上記の俯瞰した目線に対して自分が能動的に選択して動ける状態にしているということだと思います。空間に対して主導権を握っているのはあくまで自分であるということです。
私は最初、主体性が求められるこの状態で動くことに困難を感じていました。可能性がありすぎて迷ってしまい、それが自分で感じられると興醒めしてしまうためです。しかし、健太さんの動きは空間に対する反応がとても速いように見えます。ここから私は自分の微かな衝動をキャッチして考える間もなくすぐに実行していくことも一つのやり方であると気づきました。空間に依存した先に生まれる主体性も興味深いものですが、その強度をかき消すほどの実行の上にある動きもとても面白いものだと感じました。
<湯浅永麻によるシディ・ラルビ・シェルカウイ作品レパートリークラス
このクラスでは3日間かけて一つの作品の一部分をレパートリーとして学びました。振付をただ踊るだけでなく、作品の背景や舞台上での振付の在り方を踏まえてのクラスでした。振付の中でいかに自由に踊るかということを考えた時、「自由に踊る」の解釈は様々にあると思いますが、今回のクラスではその内の一つを見出せたと思います。
自由に踊る手がかりとして最も印象的だったのは、クラス中の「”Lyrical(叙情的)”は後からついてくる」という言葉でした。今まで永麻さんのダンスは感情的なのに嫌みのない感動があると感じていましたが、この考えからきている部分もあるのではないかと思いました。踊っていて感じたのは、制限がある方が自然な感情がついてくるということです。今回のクラスでの振付はしなやかで曲も叙情的であり、感情ものせられるようなものでした。しかし自然発生的な感情より、振付や環境による動きの制限の対して発生する感情の方が真実味を持っているように感じました。
テクニックも勿論身体の可動性を高めるという点においては重要ですが、それに私たちの踊りが従属してはいけないと思います。今回の振付は技術的にも難しいものでしたが、その先にダンスの自由を見出す道筋を含んだ振付であるように感じました。振付家が腕の動きを考え、それに合わせてダンサーが脚の動きを作ったという創作過程も影響しているかもしれませんが、ダンサーとして自由になる一つの方法を学べたと思います。
<柿崎麻莉子によるシャロン・エイヤール作品レパートリークラス
このクラスではそれぞれ異なるレパートリーを学び、最終日にそれらを合わせた即興を行いました。以前からある動きの流れをダンサーが修得して踊る意味について考えていましたが、最終日の即興時、純粋に楽しむ麻莉子さんや他の参加者の方に感化され、とても自由に振付を踊っているという感覚がありました。そして自分の動きや人との関わり方への衝動を常に感じていました。
例えば私の場合はフラストレーションを感じる動きをしたい、大勢ではなく誰と踊っているのか明確な繋がりを持ちたい、といった自分の衝動を感じました。勿論後から考えたことなので言語化が適切かどうかはわかりませんが、少なくともその衝動を活かすことは「ダンサー」として振付を与えられた時に「自分のものにする」ことに繋がるのではないかと思います。作品の意味や背景を考えることも重要ですが、実際に自分がその作品中に身を置いた時に湧く衝動と対話していくことができれば、自分が踊る意味があるような気がしました。
このことはある種当たり前ですが、振付の技術面の難易度が高い時や「上手く」踊ることを期待されていると感じる時、私は時々見失ってしまいます。自分がダンスと向き合い続けるためにも常に衝動との対話を楽しめた方がいいと、このクラスを通して改めて感じることができました。

写真:湯浅永麻クラスより