Talk Dance Vol.8「DaBY ProLab 成果発表『Dialogue』を終えて」(畠中)
2021/5/11(Tue)
レポート:畠中真濃

Mano Hatanaka in “Dialogue” / photo by momoko japan
『Dialogue』は、健太さんが経験を積んだ「ダンサー」であるからこその作品だったように思う。今回のコンセプトを初めて聞いたのは、DaBYの企画で視覚障害者の方とのダンス鑑賞に関する研究会が開かれた時だった。私はこの時、ダンスとビジュアルはどれほどの相関関係をもっているのか、私たちが日々積み上げる鍛錬の多くはビジュアルにしか還元されないものなのか疑問に思っていた。この疑問を投げかけた時に、「感覚の記憶を、対話を通して記録する」という言葉を聞いたのだ。
今回の振付方法は、言ってしまえば「フォルムはなんでもいい」ものだったと思う。これによって私たちは、振付として残るものが自分たちにしかわからない状態になった。また、初めは振付家や他のダンサーとも共有していたが、段々と振付が何であるか自分しか知らないような感覚になっていった。感覚を思い出しながら踊る時、何をどのように思い出しているのか、そして実際に何が思い出されているのかは自分しか知らないためである。この振付は、ごく個人的な経験の積み上げであり、それを誰にも邪魔されない形で昇華しつつ他人の覗きを許すだけの行為であったと私は思う。少なくとも私にとっては、踊りを見せて何かを伝えるのではなく、ダンサーとしての何かを守るためのものであったのだ。
パフォーマンス当日に感じたのは、まさにそういった感覚であった。普段踊る時は「見てほしい」と思うと同時に「見てほしくない」とも思うが、今回は「見てほしい」とも「見てほしくない」とも思わなかった。ただ自分がそこで思い出している独り言を誰かが聞いているだけという感覚で、これはまさにリハーサル中に共有されたイメージの一つである「エレベーターの中で居合わせる」という感覚に近かった。
ダンサーには「感覚で何かを共有する」ことの魅力に囚われている人が多いだろう。これは時に、言葉よりも身体がいい、考えるより踊りたい、といった考え方も生むのではないだろうか。今回のリハーサルにおいて、「対話」を通して「記憶」を「記録」する時、この「対話」は必ずしも言葉ではなかった。だからと言って、必ずしも身体や感覚の類でもなかった。重要なのは、媒体が違えど記録できるものがあるということ、そして媒体が同じでも記録しきれないものがあるということ、記録しきれなかったものこそ自分で守れるものだということだ。
ある意味無責任な感覚に思えるかもしれないが、「感覚の記録」は確実な幻想である。この作品において、ダンサーは感覚の記憶を表出させることによって記録した。そして同時に記録できないものを守ったのだと思う。今回の作品を通して、ダンサーの「感覚の記憶」の危うさを痛感した。しかしそれは目の前の感覚への信頼を生むことにもなると思う。今後も、積み上がる「感覚の記憶」と目の前の感覚に対して敏感に向き合っていきたい。