鈴木竜トリプルビル
ダンサー、そして振付家として期待される鈴木竜の三つの新作は、「わたしのからだは わたしのものか」という極めて現代的で、広い射程を持つテーマの三種三様の変奏である。2020年からアソシエイトコレオグラファーを務めるDance Base Yokohamaの協力の元に、コレクティヴ・ワークの方式で進められた創作の成果は、鈴木の仕事が新たな段階に進んだことを実感させる。
『never thought it would』
複数のネオンがランダムに浮かび、無機質な雰囲気が漂う空間。床すれすれのネオンが、その下に伏すひとつの身体を照らす。鈴木は本来の鋭さと速度を封印し、横臥したまま緩やかな蠕動を見せていく。しかしメタリックブラウンのボディスーツに包まれた身体は、アルヴァ・ノト(カールステン・ニコライ)のエレクトロサウンドに呼応してライトが明滅し、色を変えていくにつれて、徐々に動きを解き放つ。多様なニュアンスのムーヴメント、身体軸とのコーディネーションの意外な連携は、優れたダンサーである鈴木ならではだ。ダンスは高さと広がりを獲得し、高揚する音楽と光に導かれるように熱を帯び、絶頂へと突き進む ― 観客の眼前でその身を燃やし尽くすまで。
ロマン主義の文豪ゲーテの詩「昇天のあこがれ」の、眩い光へとひたすら進む蛾をうたった一節が本作の発想源のひとつだと、鈴木は明かしている。美に魅了され、自己を見失うほどに踊り続けるダンサーは、鈴木その人に他ならない。理想と現実の乖離に苦しむ芸術家というロマン主義芸術的な主題と、高度に発達した資本主義社会のシステムに組み込まれ消費される芸術家という現代的な主題を重ねたこと、それを抽象的な空間において展開することで、踊り続ける宿命を背負ったアーティストの孤独を浮かび上がらせた点に、鈴木の独創がある。
『Proxy』
古来、人間はその本質を魂や身体に求め、理想の人間像を追求してきた。だが21世紀を生きる私たちは、魂も身体もない仮想空間のアバターを理想の自己として、もう一つの現実を生きることが可能である。多元化する自我と他者との関係性を、鈴木は高校生を中心とする6人の若いダンサー、そしてフランス人アーティストのオディット・ピコが製作した人形を起用して描き出す。
幕が開けると、舞台に並び立ち、客席を直視する6体の人形。スポットライトを浴び、堂々と個性を主張する人形たちの背後、静寂と薄闇の支配する空間が6人のダンサーのスペースだ。全員が黒をまとい、うつむき、孤独な身振りを繰り返すが、ふと同期して鋭いアンサンブルを生む。彼らは極めて高い技術のダンス、多彩な振付でエネルギーを発散するが、個性を消した外見とのアンバランスがいっそう危うい印象を与える。
人形は人間の“代理(プロキシ)”だが、虚像と実体、不在と存在の二元論に回収されないのが面白い。不動の人形と鋭い電子音に展開する激しいダンスのコントラストを経て、穏やかなピアノにのせ少年と少女が互いを確かめるような小さなコンタクトから紡ぎだす美しいデュオの場面へ。振付は、過剰な自意識と他者への恐怖を乗り越え、現実に居場所を見つけていく過程を丁寧に見せていく。現代的な主題のなかに、普遍的な若さの痛み、繊細な心理を視覚化し、物語るダンスである。
『When will we ever lean ?』
幕が開くと、舞台中心に黒いスーツの男、間隔をおいて白い衣裳のダンサー3人。沈黙を熱いヴォーカルが破ると、ひとりひとり男に促され、ダンサーは照明を浴びて懸命に踊る。孤独な戦いを踊る女性、スタイリッシュなポーズを繰り出す男性、暴力的な介入を受け入れ踊る女性。“振付家”との関係はさまざまだ。黒服の男は鈴木、ダンサーはNDTに在籍した飯田利奈子、イスラエルで活動した柿崎麻莉子、Noismの中心で活躍した中川賢。表現、技術共にトップレベルの4人が、舞台作品の創造に内在し得る“非対称な関係性”のテーマに、真摯に取り組む。
しかし、作品は振付家の優位性や、振付家とダンサーの対立をナイーヴに糾弾することはしない。対立の構図は3対1、2対2と多様に変化し、新たなバランスが怒りと諦め、反抗と恭順等の相反する感情、情愛の交換のドラマを生む。構成も明確で、場面の転換が劇的な効果をあげている。既成の秩序に抗う1960年代のアメリカ音楽で展開する強烈なダンスシーンと、沈黙の空間に広がる夢幻的なダンスシーンの交錯が、踊り手が対峙するハードな現実と心象風景を重層的に描き出す。
“振付”という出来事が、ダンサーそれぞれの人生に引き受けられ、個人の感情、相互の干渉によって、観客の目前に現れるひとつの事件となることを、作品は巧みに示す。パフォーマーの力量と制作者の奇知により、振付が振付を語る魅力的な作品となった。
岡見さえ