DaBY パフォーミングアーツ・セレクション 2021
酒井はな『瀕死の白鳥』/『瀕死の白鳥 その死の真相』
言わずと知れたミハイル・フォーキンの名振付『瀕死の白鳥』を、日本を代表するバレエダンサー酒井はなが踊るというのだから、それだけでもう十分に贅沢だ。湖を飛び水面に着水するさま。瀕死の生命が懸命にもがき静かに息絶えるさま。わずか数分のうちに繰り出される一連のボキャブラリーは、酒井が白鳥の身体運用を完全に我が物としていることを感じさせる。
しかし、今回はそれで終わらない。「瀕死の白鳥」を終えて拍手の中で礼をした直後、気がつけばもう白鳥とチェリストは「瀕死の白鳥 その死の真相」を演じ始めている。酒井は先ほどと同様に踊り出しながら、今度は話し言葉のようにだらだらと続く台詞を喋る。白鳥は死ぬ間際何を考えるのか、いったいなぜ死ぬのか、そして、それを振付として踊っている酒井は何を考えているのか。ひとつの語りの中で複数の視点が渾然一体となり、『瀕死の白鳥』という作品を、振付と表象、それぞれの水準で紐解いていく。
現代演劇の旗手である岡田利規の演出で、通常は音楽とともに線形に進むダンスの時間が何度も停止され、引き延ばされ、反復される。通常は振付を踊ることによって白鳥に「なる」ダンサーが、自らの語りが引き裂く時間の中で、振付の外部で白鳥「である」こと──白鳥として喋り、白鳥として振る舞うこと──を強いられる。
癒着していた振付と身体言語とが、こうして切り離されて提示される。私たちはこのときはじめて、身体の豊かさを真に味わうことができるのかもしれない。
中村恩恵『BLACKROOM』/『BLACKBIRD』よりソロ
仄暗い舞台の上に、黒い衣装に身を包んだ中村の顔と手だけが白く浮かび上がる。照明の中に静かに歩み出て、踊り始めた体はまるで、右手に導かれているかのようである。右手はときにノートに文字を書きつけるように細かく、ときに大きな筆で書くように力強く舞い、体がそれを追う。挿入される語りによれば、どうやらそこは、誰かが思いついたまま口には出さなかった言葉を聴くための部屋。もともとは真っ白だったのに、壁中に書きつけられた言葉で真っ黒になった部屋。言葉に奉仕し、初めは静かに、次第にもがくように書き続けた踊り手/語り手は、やがてそこで誰にも知られることなく朽ちていく──。
さるインタビューで中村自身が語ったところによれば、イリ・キリアンとの創作において中村は、言葉にならない思いを手振りで表現することをリクエストされてきた。他方、別のインタビューでは、キリアンには振付や動きを言葉で表現してみるよう教えられてきたとも語っている。こうして言葉とダンスのあいだを往復してきた中村が、自作自演の「BLACKROOM」において、言葉への奉仕を死に至る孤独な作業として表現した点は見逃せない。
続く「BLACKBIRD」は、NDTから独立した中村のためにキリアンが作ったもので、ダンサーの誕生から円熟までを描いた作品だという。それぞれに別個の物語を持った二つの作品は、奇しくも一続きに踊られることで新たな意味を帯びている。黒い部屋での死の場面から暗転したのち、再び照明がついたときには「BLACKBIRD」が始まっている。2分ほどの短いソロは冒頭部分、まさにへその緒から切り離され、自分の足で歩きだすシーンにあたるという。先ほどまで腕を隠していた衣装が脱ぎ去られ、今度は肩から先、腕全体が美しく照らし出されている。かくして不死鳥のように鮮やかに生まれ直した腕は、大きく伸びやかに舞いながら、もはや何も書くことはない。
鈴木竜『When will we ever learn?』
プロレスのリングのように四角く照らし出された舞台に、男が2人、女が2人。順繰りにリングの中へ入ってそれぞれに個性の際立つソロを踊った後、今度は2人ずつデュエットを踊る。はじめの2人は暴力やハラスメントを連想させる不穏な振付。続く2人は情熱的に愛し合う男女といった趣の振付。振付が一巡するころには、4人それぞれの役柄・立場がすっかり明確になっている。
続いて、衣装を脱いで振付を──つまり、役柄と立場を──入れ替える。虐げられる女性の振付を男性が踊り、愛し合う男女の振付を女性同士のデュオで踊る。配役を変えて、振付は何度も繰り返される。私たちはその反復の中に、交換可能なものと不可能なものとを見出すことになる。
振付という仕組みが前提とするダンサーの交換可能性。そして、私たち人間が他者と同じ立場に立つことの原理的な不可能性。『When will we ever learn?』は、それらふたつを巧妙にすりあわせて作られた分断の時代への問いである。たとえ全く同じ振付でも、異なるダンサーが踊れば、運動・意味それぞれの水準で異なるものが表象される。暴力も愛情表現も組み合わせと順番によってその意味合いを変える。
他者の振付を踊ってみたところで、私たちは他者になれるわけではない。しかしそれでも、そのように他者の身体を踊ることがダンサー自身に残す痕跡はあるはずだ。そんな風に思わされる。理性的な議論では到達できないような、不思議な説得力を帯びた作品。
安藤洋子『MOVING SHADOW』
「ダンスの系譜学」は、ダンサーにとって原点となった振付と現在の仕事とを併置することで、継承され発展されてきたものを見出そうとする試みだ。しかし今回、フォーサイスダンサーである安藤洋子と共演する2人の若手は、別にフォーサイス的なメソッドを叩き込まれたダンサーではなさそうだ。金色の短髪を刈りあげた木ノ内乃々はバレエ出身。黒髪をコーンロウに編み込んだ山口泰侑はオールドスクールを中心としたストリートダンサー。アフロの安藤も含めた3人の取り合わせは、見た目も動きもかなりコントラストが強い。
終始ゆったりしたビートで流れる重低音は、バレエのものでもなければストリートのものでもない。3つの体の境界にあるような音を背景に、三者三様のソロを回し、時にソロとソロとが重なりあうようにしてユニゾンが始まる。シャープで小気味よいボキャブラリーを淡々と繰り出す木之内。はじめはストリート出身らしく暴れておいて、徐々にストリート感を抜いて場に調和していく山口のソロ展開。それぞれ存分に若さを発露し個性を魅せ、時に重なり合う2人に対し、安藤はつかず離れずの絶妙な距離感を保つ。2人と一緒に踊ったり、踊らなかったり、時にはわざと「踊れない体」を演出してみたり。道化のようでもあり、どこか親や師匠のようでもあるこの安藤の立ち回りが、若い2人だけでは成立しないマリアージュの糊付けになっている。そしておそらく、それこそが継承ということの1つのあり方なのだ。
なるほど、後進に自分のボキャブラリーを叩き込むことだけが継承ではない。いったい、系譜とはなんだろう。この作品を通じて次の世代に受け継がれたものはなんだろう。安藤の身振りに、思わずそんなことを考える。
鈴木竜『never thought it would』
振付家鈴木竜によるソロ作品。トリプルビルとして上演された他の二作品が明確に意味の水準から構成されていたのとは対照的に、純粋なモノへのフェティシズムから生まれたのではないかと思わせるところが本作品にはある。たとえば天井から無数に吊られた剝き出しの蛍光灯の冷たい光。たとえば光を受けてエナメルのようにつらつらとひかる全身タイツ。そしてなにより、鈴木自身の肉体。
一連の展開には、まるでひとつの生命が成長し変態するのを見るかのようなスリルを覚える。伏臥位のままアメンボのように四肢を滑らせてみる。仰臥位になって上品な尺取虫のように床を這う。ようやく立ち上がったかとおもえばその場に踏ん張ったまま、肉体の可能性を試しつくすようにボディウェーブやアイソレーションを繰り返す。ようやく二本の足で歩き出すのは佳境に入ってからだ。はじめは一歩一歩確かめるように膝を高く掲げて震えながら、じれったいほどゆっくり、しかしスリリングに。次第に跳躍と早いステップを踏んで、やがて走り出す。勢いのあるステップの反復や移動からの静止は本当に美しく、羽化して完全体となった生命を思わせる。
ダンサーとして踊り続けるということは、そうやって何度も生まれ直しては変態するような営みなのかもしれない。慣れ親しんだ自分の肉体をある種のモノとして脱構築し、フェティッシュとして味わいなおすこと。こうした営みの一部が作品となって上演されるとき、舞台の上にはしばしば、人間のかたちをした未知の生物の表象が現れる。
鈴木竜『Proxy』
スポットライトで舞台の一番前、上手に置かれた1体の人形と1人の人間が浮かび上がる。じっと動かない人形の背後で、人間のダンサーが短いルーティーンを繰り返す。続いて隣で別の人形が浮かび上がり、背後に立った2人目の人間がソロ。こうしていつしか舞台上には、6体の人形と、それに対応する6人の人間が並んでいる。
フランスの作家によるという個性豊かで存在感のあるつぎはぎの人形たちと、真っ黒に統一された衣装のダンサーたち。あるいは、微動だにしない人形と、固有の身体言語で各々雄弁に踊るダンサー。ふたつの存在は、それぞれを補いあって1つの人格になっているかのようだ。人形自身は動かないが、かわりに人間が人形を踊らせる。6体の人形は舞台の上で動きつづけ、配置を変えつづける。さて、これはモノをつかった群舞なのだろうか。それともむしろ、モノに奉仕するための群舞なのだろうか。
タイトルに冠された「Proxy」は、本物の代理となる存在、他者代行の権限を与えられた存在のことを指す。省みれば、現代人は生身の体と出来事とのあいだに様々なプロキシを介在させている。どうやら本作では、エキゾチックな人形がダンサーを代理するペルソナ、あるいはアバターとして配置されているらしい。しかし、本当にそうだろうか。ここでプロキシとは人形と人間、いったいどちらのことだろう。いや、実際のところ、どちらがどちらでもいいのかもしれない。それぞれに雄弁な二つの存在を前にして、我々は次第に、本物と代理とを殊更に区別する意味を見失っていく。
橋本ロマンス×やまみちやえ『江丹愚馬 ENIGMA』
上手の奥、赤い布で覆われた台座に着座する義太夫節の面々。がらんとした舞台の上は隅々まで煌々と照らされ、下手に無造作に置かれた脚立や梯子がまるでバックヤードのような雰囲気を醸し出す。どこか殺風景な印象の舞台に下手から静かに現れたのは3人のダンサー。語りとお囃子を背景にして3人が踊る、という構成だとひとまずは理解するが、どうも様子がおかしい。
それぞれ個性的にも踊れるはずの3人のダンサーは、どういうわけかその技巧を殊更に披露しようとはせず、小さくまとまってキッチュなユニゾンを踊っている。と、驚いたことに台座の上で太夫をしていた男が、3人に導かれるままにふらふらと舞台中央へ歩み出した。踊る3人に踊らされるようにして、気づけば主役に祭り上げられているのはこの太夫のほうだ。促されるままに台詞を読みあげ、世直し世直しと息まいて演説をぶち、ダンサーが操る脚立=怪物を相手に大立ち回りを演じ、英雄気取りでお祭り騒ぎを始めれば、しまいにはお囃子の面々までが楽器を手に踊っている。
神輿に担ぎあげられて踊る権力者と、その周辺で不気味に踊る黒幕。みんなが踊るのを見て踊りだす大衆。なるほど、ここではダンサーとは踊る者のことではなく、踊らないはずの者をさえ踊らせる者のことなのだ。メインダンサーと呼ぶには控えめで、しかしバックダンサーと呼ぶにはあまりにも強く物語を主導する不気味な存在。彼女たちが作りだした「空気」によって、殺風景だったはずの舞台の上にはいまや、はじめとは全く違う景色が見えている。
太田充胤