小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー『練習曲』
ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー『練習曲』第1部|ワークインプログレス 2025年1月 Dance Base Yokohama
2025年1月にオープンリハーサル/ショーイング(ワークインプログレス)+アーティスト・トークが実施された『ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー「練習曲」』は小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク(以下、スペノ)による「1番目の『ダンス作品』」なのだという。だが、言うまでもなくスペノはこれまでも継続してダンスに取り組み、その上演を行なってきたコレクティブだ。『第1番』が初めてのダンス作品であるならば、遡ってこれまでスペノが上演してきたダンスは作品ではなかったのだということになるだろう。そこでまずはこれまでのスペノのダンスへの取り組みが何だったのかを確認するところからはじめたい。
スペノのWEBサイトのPERFORMANCESのページには過去公演の情報が集約されている。パフォーマンス、演劇、ダンスの3種類に大別されたそれらのなかに、しかし「ダンス」と冠されているものは意外なほどに少なく、2025年3月の時点では『ダンス作品第1番』『ダンス作品第2番』『ダンス作品第3番』『フィジカル・カタルシス』の4項目しかない。では、スペノのダンスのなかで唯一「作品」と冠されていない『フィジカル・カタルシス』とは何か。スペノ自身の説明によればそれは「2019年よりスペースノットブランク独自の動きの生成手法として研究開発と上演を継続して行なっている」ものであり「ダンスの『メソッド』としての側面と『作品』としての側面を併せ持」ち、「過程と結果のどちらもの性質を有」するものだという。あるいはそれは「ダンス作品以前のダンス、を掲げる独自の動きの生成メカニズム」であるとも説明される。加えて「『フィジカル・カタルシス』の呼称を超え、フェーズ単体での制作と上演が行なわれることもある」との記述もあり、実際、WEBサイトの『フィジカル・カタルシス』のページには『フィジカル・カタルシス』のタイトルで上演されたもの以外に『バランス』『サイクル』『ストリート』などのタイトルでの上演についての情報も記載されているのだった。つまり「作品」以前のスペノのダンスへの取り組みは、その全てが『フィジカル・カタルシス』の名のもとに集約されるものだったのである。
もう一つ補助線を引いておこう。スペノが掲げる「過程=結果」という一見したところ不可思議な等式は、しかし実はほとんどあらゆる舞台芸術に共通する原理でもある。あるいは世界の真理と言ってもよい。上演=現在とは稽古での取り組み=過去の集積だからだ。上演という結果=現在にはそこに至る過程=過去が畳み込まれている。スペノはしばしばそのごく当たり前の、しかしそれゆえことさらに意識されることのない原理/真理を上演の場において改めて提示してみせる。たとえば『緑のカラー』などの演劇作品において俳優は、舞台(芸術)とは畢竟「過程=結果」の原理が駆動する場でしかないのだと言わんばかりに、上演の現在に至るまでの過程(らしきもの)を語ってみせるのである。そうして現在は過去の集積に還元される。
『フィジカル・カタルシス』の実践からもこの「過程=結果」の原理を見出すことができる。『フィジカル・カタルシス』のフェーズのうちの一つである「フォーム」は、ある一人が短い身ぶりをやってみせるとそれに呼応するようにして次の一人が新たな短い身ぶりをやってみせるという(スペノが「かたちをとる」と表現する)やりとりを重ねることでムーブメントを生み出していく、言わば身ぶりのしりとりとでも言うべきメソッドだ。フォームにおいて個々の短い身ぶりはそこに至るまでに連ねられてきたやりとりの結果であり、同時に、やがてそれらが連なった結果として生まれてくるムーブメントに至る過程でもある。一方、そうしてしりとりの結果として生まれてきた身ぶりの連なりとしてのムーブメントは、そこに至る過程を再現したものでもあるわけだ。
このように、「過程=結果」の原理はスペノの多様かつ膨大な活動において一つの通奏低音として見出せるものなのだが、では、それを踏まえたうえで『第1番』における取り組みはどのようなものとして捉えられるだろうか。直感的には、なるほど、この作品はこれまでの『フィジカル・カタルシス』の上演と比べて格段に作品らしいと言いたくなるものであった。音楽があり、照明があり、ダンスとそれらが渾然一体となって一つの単位をなしているように見えたのだ(逆に言えば、少なくとも私には、これまでに見た『フィジカル・カタルシス』の上演はそのように見えなかったということでもある)。
たとえば、今回の上演では全12曲ある「練習曲」の第1部とされる6曲がそのまま使われていたのだが、その1曲目「五本の指のための」のラストには、3つの和音が打ち鳴らされるのと同期してダンサーが動く、謂わゆる音ハメのシークエンスがあった。ゴーティエ・アセンシと山口静は1つ目の和音で跳び、2つ目で着地し、そして3つ目で両手を上げてポーズを取る。あるいは、3曲目「四度のための」のゴーティエと宮悠介のデュオのシークエンスでは、曲調と呼応するかのようにエロティックとも呼べる雰囲気が漂う。それはダンサーの資質に由来するものなのかもしれないが(スペノのクリエイションにおいては基本的に出演者の協働によってムーブメントが生み出されていくため、個々の出演者の資質は否応なく全体の質感にも影響を与えることになる)、いずれにせよ、これはスペノのダンスでは極めて珍しいことだ。照明(櫻内憧海)も曲調に沿うように劇的に舞台面を照らし出している。私の知る限り、これまでの『フィジカル・カタルシス』の上演において、このようなかたちで音楽や照明が導入されたことはなかったはずだ。『第1番』が作品然として見えたとすれば、何よりもまず、このような音楽と照明によるフレーミングの効果が大きいだろう。

実際のところ、ショーイング後のトークでは、一部の振付は音楽に合わせてつくったものであるという趣旨の発言もあり、『第1番』における音楽が振付を規定するフレームとしての役割をある程度は果たしていたことは間違いない。だが一方で、大部分の(?)ムーブメントはこれまでと同様「フィジカル・カタルシス」をメソッドとして用いて生み出されたものであるらしく、その意味では『第1番』はこれまでのスペノのダンスへの取り組みの延長線上にあるものだということもまた確かである。ごく凡庸な一つの結論としては、『ダンス作品第1番』は『フィジカル・カタルシス』というメソッドを磨き上げてきたスペノが、満を持してそれを用いたダンス作品の制作に取り組んだ結果なのだということになるだろう。
だが、本当にそれだけだろうか。『第1番』の使用楽曲として「練習曲」を選んだのは、この曲が作品であると同時に練習のためのものである(という点が面白いと思った)からだとスペノは言う。ここには再び「過程=結果」の原理が顔を出している。ならば、『第1番』もまた、ダンスをダンス作品たらしめるためのメソッドを探求する、たとえば「フレーム」とでも呼ぶべき『フィジカル・カタルシス』の新たなフェーズなのではないか。いや、スペノが「ダンスをダンス作品にすること」への抵抗を公言していたことを考えれば、それはむしろ、一般的には結果と見なされる「作品」という単位を過程へと開いていくためのものでさえあるのかもしれない。「ダンス作品」へのナンバリングはすでに、それらが過程の一部で(も)あることを示すかのようでもある。だがいずれにせよ、一連の「ダンス作品」はそのタイトルとは裏腹に、2025年1月の時点では未だ一度も完成された作品としては上演されていない。『第1番』『第2番』はショーイング/ワークインプログレスとして上演されたのみ、『第3番』は2025年10月の初演が予告されているのみなのだ。その意味で、一連の「ダンス作品」は文字通り未だ過程にあるものだ。それが「結果」として提示されたとき、そこには一体何が立ち上がるのだろうか。
2025年3月20日
山﨑健太
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