フィジカル・カタルシスの追憶に/小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー『練習曲』
ダンス作品第1番:クロード・ドビュッシー『練習曲』第1部|ワークインプログレス 2025年1月 Dance Base Yokohama
私にはいまのところ『ダンス作品第1番』を、スペースノットブランクがこれまで築き上げてきた方法論に対する思い切りの良い否定の身振りとしてしか受け取ることができずにいる。
2019年以来スペースノットブランクが探求を続けてきたダンスの生成メソッド「フィジカル・カタルシス」はフォームやリプレイ、バランスなど様々な振付手法からなるが、そのいずれにも共通するのは方法と結果、稽古と上演の区別が不分明になるような、上演に対する独特な準備のありようであった。創作過程と本番とを無前提に峻別する従来的な作品美学は採用されず、実際に作家たちはその上演をダンス作品という完結性を含意した表現で名指すことを避けてきたし、先ほど「手法」と書いてしまった振付の生成原理も、手法とその成果物の両方を切り分けずに含意する意味でだろう、「フェーズ」の名のもとに分類され試行されてきた。
「フィジカル・カタルシス」においてダンスはまさに生成され、その持ち主は至極曖昧である。数秒程度のごく短い身振りを複数人のダンサーが稽古場で互いに繰り出し合い、相手の動きを受けて自分の動きを繋げていく。断片的な身振りがしりとりやチェスのように続けられ置かれていくうちに、いつのまにか身振りのシークエンスが成立するのだ。振付家があらかじめフレーズを用意することはない。かといって身振りはダンサー個人のクリエイティヴィティに還元されもしない。動きはダンサー相互に触発し合う即興的な感応のなかで自生してくるのだ。
このように生み出された、断片的でありながら互いに関係を持ちもするいくつもの身振りは、先ほどしりとりやチェスにたとえたように、稽古場では相互の知覚や認識、思考の時間を含んでぽつぽつと生起するわけだが、上演の場ではこれらは一挙に高速で舞台上に展開される。もとが即興的に生成された身振りであるので、ここになんらかの象徴やモチーフを読み込もうとする意味解釈は不毛である。むしろ読まれうるのは、瞬間瞬間に発火する身振り同士の類似や対応であり、身振りが生成されたそのプロセス、すなわち過去である。プロセスとしてのダンスというとき、現在進行形で生成する未完成の即興的プロセスが踊られるのが一般的だが、フィジカル・カタルシスの場合は過去に身振りを生成したプロセスが吟味の上で、完成されたものとして呈示される。かくしてダンスの生成過程は踊られる内容となり、踊りの手法と結果とは今や一体化し、観ることは完成された舞台の奥に生成途上の過程を幻視するような、逆説的な「出来事」となる。
ところが『ダンス作品第1番』は、その題名からすでに明らかなように、上演という現在の枠のなかで、作品として切り閉じられていた。踊りは減速し、ダンサーの身体が持つ個性は見て取りやすくなる。高さや低さ、重心のゆだね合い、表情や視線といった諸ファクターがダンサー同士の関係性を意味論的に読み解く符牒となり、支配と非支配、親密さと孤独、出会いと別離といったことどもが、上演の内容として読み込めるようになる。さらに、従来は抑制されてきた照明や音楽のふんだんな使用が、この意味論的解釈を一層助長し、観られるべきものは現在進行する舞台上の「作品」のただなかにあることを保証する(使用楽曲のクロード・ドビュッシー『練習曲』が作品の副題に冠されているのはますます意味ありげである)。上演は制作過程から切断され、観る者の視線は舞台上の現在で行き止まる。
小野彩加とともに振付・演出を務めた中澤陽のアフタートークでの発言から、この転換の背景にある作家の考えをうかがい知ることが出来た。表現の強度を発生させるうえで出演者の有する本人性や個性に寄りかからず、振付家自身がその責務を引き受けようと考えたのだというのが、私なりに受け取ったその大意である。しかし、たとえそのように表現の責任を振付・演出家に集約させるためのひとつの機制としてモダンな作品概念が便利であったとしても、プロセスと上演とが一体となった従来のフィジカル・カタルシスの形式を手放す必要は必ずしもなかったはずであり、その点従来の制作方法から果敢に脱皮しようとしたこの『ダンス作品第1番』は、私にはかえって退行的にさえ思えたのである。
もう一点、つけ加えなければならない重要な変化がある。ダンサー同士の身体接触の増加である。身体同士の関係性を直接に開示してしまうコンタクトは、従来のフィジカル・カタルシスにおいては最小限に控えられていた。対して『ダンス作品第1番』では、ダンサーたちは近づき、逃げ去り、もたれかかり合う。このあけすけなまでの接触が『ダンス作品第1番』を関係性の劇として読むことを可能にしている。
スペースノットブランクは、『ダンス作品第1番』にさかのぼること約1年前、contact Gonzoの作品『訓練されていない素人のための振付コンセプト001/重さと動きについての習作』を上演している。接触をダンスの上演内容に据えることは、もしかしたらこの時以来の作家らの関心だったかもしれない。「訓練されていない素人」でも踊ることのできるような、既成のボキャブラリーに拘泥しない身体表現への志向性、またダンスに対する方法主義的、形式主義的発想の点でも、contact Gonzoとスペースノットブランクには通ずるところがあったのだろう。しかし、『訓練されていない~』は即興的・ハプニング的色合いが強く、接触がまさしく予期せぬ事態を招きうる現在形の出来事として示されたのに対して、『ダンス作品第1番』はあらかじめ出来上がった「作品」の感が強かった。
継承する身体|訓練されていない素人のための振付コンセプト001/重さと動きについての習作 2024年1月 Dance Base Yokohama
スペースノットブランクはダンスと演劇とを並行して発表してきたカンパニーであり、『ダンス作品第1番』において姿勢や身振り、身体同士の関係性を意味論的に読み解くことを促す際の作家の思考や手つきはかれらの演劇作品におけるそれに近い。前向きに捉えれば、ダンスと演劇との境界を自明視せずジャンル横断的な活動を続けてきたスペースノットブランクの面目躍如としてこのシアトリカルなダンスの誕生を寿ぐべきかもしれない。また、このことから、スペースノットブランクにとってはジャンルよりも身振りの速度や身体接触の有無の方が作品を本質的に差異化するのではないかなどと考えをめぐらすのも興味あることである。
しかし、私が観たいのは、『ダンス作品第1番』における「過去」からの潔い切断の身振りが、次なるムーヴメント、かれらの身体表現の新展開を手繰り寄せたその先で踊られる舞台なのである。
- 本文では簡単のため「スペースノットブランク」と略記する。
- なお、スペースノットブランクは2024年4月26日にこの『第1番』に先立って『ダンス作品第2番』のワークインプログレスを発表しているが、私は日程の都合が合わず未見であり、公演内容の詳細は残念ながら不明である。
2025年4月10日
植村朔也
メンター:竹田真理(ダンス批評)
本批評の執筆及びフィードバックは、Wings*の一環として実施しています。
*Wingsとは
世界に羽ばたく次世代クリエイターのためのDance Base Yokohama 国際ダンスプロジェクト “Wings”
Dance Base Yokohama (DaBY)は、新プロジェクト「世界に羽ばたく次世代クリエイターのための Dance Base Yokohama 国際ダンスプロジェクト“Wings”」を始動します。本プロジェクトでは、日本のクリエイターが国際的なプレゼンスを向上することを目的とし、日本を代表するアーティスト、制作者、ドラマトゥルクや批評家の育成、作品の海外での上演、さらなる再演の機会創出を目指します。
プロジェクトの詳細は下記のPDFでご確認いただけます。
https://dancebase.yokohama/wp/wp-content/uploads/2024/11/2401118_PERSSRELEASE.pdf
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